院長ブログ

2018.01.08

悲しみの果て

今年は沼津に来てから十五つ目の年になる。
30代半ばで赴任した市立病院では、故郷宮崎から高校を卒業して静岡に来て看護師となり子育ても終わってパートで働いていた彼女と出会った。彼女が静岡に来た時代は田舎を離れ就職する学生を「金のたまご」と呼んでいたらしい。
誰にでも優しく、嫌なことや愚痴は言わない人だけど、患者さんの悪態に舌打ちした私を諫めてくれた。
彼女には定年後に退職してまだ働けるならぜひ来てくださいと言って私は開業した。
私の願いを聞き入れてくれ、3月に定年退職して4月にはもう働こうとしてくれた。
彼女に「旦那さんと記念旅行とか行かなくていいんですか?」と聞くと「わたしゃ、こうやって動いているほうがいいんですよ」と。
いつも何かしら見つけては動いてくれていた。看護師なのに地味な仕事もやってくれた。「そのまま置いといてください。私がやりますから」と言われなかったスタッフはいない。私がお礼を言っても「アラやだよ、みつかちゃった」と舌を出して照れていたっけ。

その彼女が突然に逝って四十九日も過ぎた。

十分な感謝を伝えられなかった自分への怒り。子供たちの泣き声の中から聞こえたはずの彼女のあやす声を探しても、殺風景な病院に彼女が植えてくれたミントに水をやった時に漂ってくるその匂いを感じても、もう会えないという喪失感の底なし沼。
時間がたつにつれ、人を失った悲しみとその人との過ごした幸せはコインの裏と表のように1つのものなのだと思えるようになった。幸せが厚いなら、悲しみも厚くなる。
この2か月、スタッフは同じ悲しみを抱えて忙しい時期に歯を食いしばって働いてくれた。このことは感謝とあの日から今まで私が働く原動力になっている。
悲しみの果てにはやっぱり悲しみがあった。けれど悲しみのフィルターを通した世界は、ちょっとした心遣いにありがたさを感じられる柔らかい心になるのかもしれない。このことこそ彼女が私にくれた遺品なのだ。
今年は沼津に来て初めて彼女と一緒に働かない年になる。