院長ブログ
2022.11.27
物語と現実
コロナの対策室の尾身会長が若者のワクチン接種が思うように進まないことで、
「ワクチンしましょう!ということではなく、もう少しみんなが興味を持てるような物語性のようなキャンペーンを」と総理に助言した。というニュースを少し前に聞いた。
ゲゲゲの鬼太郎の”妖気”ではないが、私の髪の毛がピーンと逆立つ。
逆立ったついでに今回は”物語”について考えてみよう。今までも政府や自治体はワクチン接種に『物語』をぶつけてきた。
『ワクチン接種はあなただけでなく、あなたの大切な人を守ります』
『自分を守り、家族や友人を守るために』ということで『ワクチンを打つことは思いやり』になるらしい。
次から次へと変異するコロナウイルスに、ワクチンの感染防止効果は2~3か月ほどで集団免疫は幻だ。だから『安心というタスキを未来につなごう』と言ってもタスキはつながらない。現実は。私は駅伝じゃなく、ワクチンは個人種目だと思う。自分が罹った時、重症化を防ぐために打つと今は思っている。
ただ、人間は現実よりも物語が大好きだ。物語の中では都合よく演技力以上の役が与えられる。
家族を虐待し、浮気して、給料をギャンブルですってもワクチンを打てば思いやりあるだろうと一人合点できるかもしれない風に。ちょっとオーバーか。
とっておきの物語が宗教かもしれない。
バチカンのシスティーナ礼拝堂の壁に描かれているミケランジェロ作”最後の審判”は生前の行いによって天国に行くものと、地獄に行くものをイエスキリストが裁く、その一瞬を描いている。
「地獄に行きたくなかったら生きているうちに悔い改めなさい」という物語を伝えるための絵だ。ありえないもの=物語について想像し、語り、信じる能力は他の動物にはない。思うに人間以外の動物は今を生きているからではないだろうか。うちの近所の野良猫3匹に「死んだらチャオチュールがいっぱいの国に行けるから、うろうろするのを止めなさい」と説いても、そんなことより、今チャオチュールちょうだい。と3匹はますます!うろうろするだろう。
誤解を避けるために書くが、物語を全否定しているのではない(そして、ワクチンを否定していない)。
まず物語にはバラバラの人間を一つにまとめる働きがある。キリスト教の人口は23億人以上だ。世界のおおよそ30%以上が信者ということになる。これほど大きな団結は、共通の物語を信じてなければできないだろう。
そして自分の物語を信じることはモチベーションを上げる利点がある。例えば、発熱外来をやっている医者が自分の病院を『最後の砦』と思うことで、もうちょっと発熱外来を受け入れる程度には。(後から読み返すと恥ずかしい。物語から覚めるときに、人は”こっぱずかしさ”を感じずにはいられないのかもしれない)
他人がきれいな言葉(永遠だの尊い犠牲だのetc...)で説明したり、自分の中で”これ、意味ある?”と物語を求めだしたりしたときは気をつけるに限る。
物語は楽な答えを用意してくれているが、現実は違う。
現実は何が問われているか?を見つけることから始まり、その答えを探し続けるものなのだから。