院長ブログ

2023.04.02

メタ認知

前回のブログでは「自分を知るには、自分を他人の目で客観的に見ることが必要で、これを”メタ認知”という」と書いた。いきなりなじみの薄い用語が出てきて、”は?”となっている人も多いと思うので、メタ認知について書いてみたい。

メタとは”超越した”とか”高次の”という意味を持ちギリシャ語に由来する。
フェイスブックが社名をメタに変えたが、そのメタもメタ(超)+ユニバース=メタバース(仮想現実世界)からとっている。
次に認知とはなんだろうか?認知とは頭を働かせることすべてと思って欲しい。そこには見る、聞く、書く、読む、話す、考える、覚える、理解するなど、すべてが含まれている。
この二つを足すと「高次の認知」ということになるが...まだわからない。
デカルトふうに言えば「我思う我を思う」(本当は「我思うゆえに我あり」)か。いいや、もっとわからないか。困った。。。ここは矢沢永吉氏をお呼びしよう。メタ認知とはロックスター矢沢永吉氏のこの言葉に集約されると思う。
「俺はいいけど、矢沢はなんというかな」
俺とスーパースター矢沢は皆さんもご存じなように同じ人物である。しかし俺とスーパースター矢沢の認知は違うのである。例えばコンサートの前日に宿泊するホテル、社員が通常の部屋しか予約が取れなかったとしよう。「ボス、ツインの部屋しか取れませんでした」と説明する。そこで矢沢永吉氏は言うのである。「俺は(ツインでも)いいけど、矢沢はなんというかな(矢沢はスィートルーム級でしょ)」私が部下ならば、ネット、電話ありとあらゆるものを駆使してスィートルームを探すだろう。
例が極端で申し訳ないが、俺はスーパースター矢沢を少し離れたところから見ている。スーパースター矢沢の認知を客観視しているのである。これぞ!メタ認知と言わずして何がメタ認知か!!
オーケー、メタ認知がわかったろうから次に行こう。

文部科学省が今の先生に求めていることは”生涯にわたって学び続けられる人材を育ててね”、ということであろう。なぜかというと社会の変化が激しいから。
明治時代の親は子供に「読み・書き・そろばん」を身につけさせれば、大正時代も自分らと同じように生活していけると思っていた。
例え昭和になっても基本は変わっていない、その時の知識を詰め込めば自分たちと同じ、いやそれ以上の生活をしていけると思っていただろう。社会は変わっていったけど、それは耐えられるくらいにゆっくりだったから、同じ価値観を子供には与えられた。
令和生まれの子が30歳になる頃にどんな社会、即ちどんな仕事があるか?平成生まれの親にわかるだろうか?私にだって、そして誰にもかわからない。けれど変化しつづけていることだけはわかっている。その変化にのまれずに乗っていくには学び続けるしかなく、それには「自分が何をしたいのか?それにはどうしたらよいのか?」というメタ認知能力を高めることが必要なのだ。
回りくどく書いてしまったが、もっとはっきり書こう、「メタ認知できると成績上がるよ」「メタ認知できると社会で生きやすくなるよ」(出典「メタ認知」学習力を支える高次認知機能、三宮真知子)

「自分を客観視すればいいんでしょ。はいはい意識して客観視」といってメタ認知能力が高まるわけでは決してない。前のブログで受験生に渡した本は、自分を知り自分をコントロールする。同時にメタ認知能力が育まれる本だった。
どんな本を渡したんだろうか?と気になる人も多いだろう。ということで、続きは次回に。