院長ブログ

2024.01.21

千年の願い

私と同じ世代なら、中学生の頃には「あなたは聖子派?明菜派?」という特集を目にしたことはあるだろう。また、高校生では「ユーミン派?それとも中島みゆき派?」とおしゃべりに興じたことは無いだろか?私はある。そして、千年前の貴族たちだって、こう話していたに違いない「あなたは清少納言派?それとも紫式部派?」と。
ユーミンが呉服店の、中島みゆきが開業医の娘である以上にこの二人、清少納言と紫式部は似ている。二人とも父親は一流の教養人であった。今でこそ娘たちの方が名前が知られているが、当時は二世として、親の教養を受け継いでいる期待から二人とも一条天皇の中宮(今でいう皇后)の家庭教師となった。そして清少納言は「枕草子」を、紫式部は「源氏物語」を執筆したのである。
一人の天皇に二人の妃、定子の父親は藤原道隆、彰子の父親は藤原道長。
歴史の教科書は愛の勝者は教えてくれないけど、政治上のそれは教えてくれる。定子は後ろ盾だった父を病気で亡くすと、兄は道長に権力争いで負けて大宰府へ流され、その失意のうちに母まで亡くなり、運悪く実家も火事で焼けてしまう。真っ逆さまに、一家が没落していった。一方の道長は人生が満月のようにかけたところがないと思えるほどに権力を増していく。
ただ一条天皇の定子への愛は変わらず、定子は懐妊する。その出産準備の頃を描いた「大進生昌が家に~」は以下のような内容だ。
~~定子様が出産のために平生昌の家に向かったとき、門があまりに狭く、私(=清少納言)の乗った牛車が入らなかったので、門から入口まで歩く羽目になってしまったわ。天然パーマの私なのに、身支度も整えていなかったから歩く姿を人に見られるのが恥ずかしくて、着いてすぐ定子様のところへ行って申し上げると、「気を緩めてはいけないわ」と笑ってたしなめてくださったわ。
ちょうどそこに、生昌がやってきたので、「門の狭い家だわ」と言ったら、「身の程をわきまえています」と答えたので、「門を立派に作る人もいるのよ」と返すと、「それは中国の故事ですね、いやぁ、あなたは漢学の知識が深いのですね。恐れ入りました」と退散していったわ」~~
定子の身分(=妃)からすれば、門が小さい下流貴族の館で出産しなければならないのは屈辱以外の何物でもなかったろう。道長を恐れて、主だった貴族は協力しなかったのだ。またこの日、有力貴族たちを誘って道長は宇治の観光に出かけている。もちろん、定子への当てつけである。
華やかさに欠けた閑散とした都の雰囲気の中、身分違いの館で出産せざるを得ないのが定子の置かれた状況だったのだ。付いていた清少納言も唇をかみしめる程悔しかっただろう。けれど、彼女はありのままを書かなかった。自分のコンプレックス(=天然パーマ)を披露して道化を演じ、この状況を笑いに変えている。自分の恥ずかしい失態、それを明るくたしなめる定子を書くことで「枕草子」を読む人に上品で美しい定子を印象付けようとしたのだった。
まぁ、でもよほど腹の虫がおさまらなかったのだろう、生昌を機転を利かせやり込めている。
そう考えると、雪の日に定子が「香炉峰の雪はどんなの?」と尋ね、清少納言が白居易の漢詩を引用して「御簾を掲げてみます」と返事し、みんなに褒められたという有名なくだりは、清少納言の自慢だけではなく、それを引き出させた定子の聡明さを伝えようと書いたのだろう。

(日本画の構図にも人気のある、御簾を上げて雪を眺めるところ)
ちなみに、この9年後彰子は実家で出産する。その時の道長が催す家を挙げての盛大な出産イベントのさなかにあって、紫式部は冷めた現実を感じてしまう、華やかであればあるほどかえって心の憂いが浮き彫りになると、日記に書いている。光の中でも影を感じてしまうのが紫式部なのだろう。清少納言は絶対的に悲惨な状況にあっても、光を見出して書いた。それが「枕草子」なのだ。

道長側と通じているのではないか?とあらぬ噂を立てられたので、定子の元を一時期去っていた清少納言に定子から”紙”が届く。「むしゃくしゃしていてても、紙が手に入ると気分がよくなるわ」と言った何気ない昔のおしゃべりを思い出して贈ってくれたのだった。
定子の自分への思いやりに深く感激し、「この素晴らしい”紙”のおかげで、千年も生きられそうです」という意味の感謝の歌を返す。「枕草子」で定子との思い出部分はほとんどこの時の紙に書かれたという。きっと定子の境遇を思い涙を流しながら書いた夜もあったと思うが、文字の上ではそれは見られない。
「枕草子」を最近読んで、「定子ってこんなに慕ってもらえて、幸せだったのかもな」と思えた。後世の読んだ人にこのような感想を抱かせる、これこそが本当に千年生き、もう千年だって生きるだろう清少納言の込めた願いに違いない。