院長ブログ
2024.03.13
僕の後ろに道はできる
学生時代の冬のある日、私は八方尾根のうさぎ平の上に立っていた。一緒に来たスキーの上手い友人はもうコブ斜面をうねるように降りて、頂にいる私にストックを振っている。「うん、わかってる。でも、この斜面は崖だよ」
恐怖で足がすくんでいる状態から何とか降りたら、ゴンドラの下りた場所から続くリーゼンスラロームコース。さっきまでの下手くそな自分とは別人のように気持ちよく滑られた。
パンフレットではこの二つのコースはうさぎ平は最大斜度31度平均斜度23度、リーゼンコースは最大30度平均20度で大きな差は無い。当時は「コブのあるなしで、こんなにも違うんだな」としか思わなかったが、疑問は残った。私の感覚はあっているのか?と。視力は近眼だけど正常だ。でも正確に斜度を、つまり”ありのまま”に見えていたのだろうか?
「ゴンドラ猫の実験」を紹介しよう。
(イメージ図、リサラーソン風にしたそうです。by看護師さん)
2匹の子ネコを回転木馬のような装置につなげる。片方のネコは床に足をつけられるようにし、自分が動けば装置も回転し景色も変わる。もう一方のネコはカゴに乗せられているだけで、装置が回り景色が流れるのを受動的に眺めている。この2匹は視力こそ正常だったが、見えるもののとらえ方が違っていた。受動的な猫は自身と物の距離感が理解できず、目の前に迫ってくるものに瞬くことができなかったのだった。
人の赤ちゃんでは「ゴンドラ猫」するわけにはいかないので、マジックテープが付いている粘着ミトンとくっつく専用のおもちゃで、まだものをつかめない赤ちゃんに遊んでもらった。粘着ミトンでおもちゃに触れると”わぉ!くっついてくる!”というわけだ。そうやって遊んだ赤ちゃんは、粘着ミトン以外は同じおもちゃで遊んだ赤ちゃんに比べ、なめたり叩いたり、おもちゃを確認する時間が増えた。そしてその影響はおもちゃへの興味、おもちゃに集中するという行動に1年後にも見られたという。
同じような経験をしても身体で積極的に経験(=体験)する(能動的)のと、そうでない(受動的)のとでは違うようだ。ゴンドラ猫も赤ちゃんも、自分の身体とできたことによって、状況や意味を知り、それがまた新しい自分だけの世界を作る。赤ちゃんはものをつかむ、口でなめる、たたく、投げる、落とす、そうやって自分と自分の周りの世界の法則を理解していく。今度、子供がものを投げたり落としたりしてうんざりした時は、わが子は今ニュートンになっていると思ってみよう。
こんなふうに、私たちは”ありのままに”知覚しているのではなく、”自分にとってのありのまま”として知覚し、そうやって身体を通して心を作っていく。だから、事実は同じなのに捉え方が人によって違うのだ。人それぞれの世界観というのが多様性の本質だと思う。私がうさぎ平が断崖絶壁に見えたのは、私の”スキーの技術が未熟だったから”に他ならない。
私の崖と同様、坂道の角度を見積もる実験では、体力がある人は緩く見え、重りをつけていれば急に見える。まさに”ありのまま”の角度ではなく、自分にとってどれだけ坂を上るのが簡単か、難しいかで角度を知覚しているのだ。だから、坂道の前で友人と一緒だと?当然緩く見える。
花粉が飛びいつも以上に混雑した土曜日の診療が終わった後、一人少ない中で頑張ったスタッフを労うつもりで「坂道は体力のあるない、友人がいるいないで、緩く見えたり、きつく見えたりするんだよ」と今回のブログの内容を話してみた。「今日、一人いなくてきついと思ったでしょう!?でもそれ錯覚だから、坂道の角度は変わらないから」
スタッフにはかぶせ気味に「違うね!なんなら朝の予約を見たとき直角だったし!」と言い返された。ちっ、だまされなかったか。。。