院長ブログ
2024.04.29
ファスト&スロー(Ⅱ)
私の世界の一部は、これまでに読んだすべての本から成っている。そして、もし読んでいなければ、その世界は色を失っていただろう、と言える本の一つがダニエル・カーネマンの「ファスト&スロー」である。(過去のブログもあり)
イスラエル人のカーネマンは大学で心理学を専し、徴兵されたイスラエル国防軍では心理学部門に配属される。最初に「どの士官訓練生が、リーダーとしてふさわしいか予測しろ」という仕事を与えられた彼は、候補生をグループに分け、それぞれに同じ課題を出し、それを解いていく様子を観察する。という方法をとった。ストレスをかけることで本当の性格が表れ、誰がよいリーダーの資質を持つか自ずとわかる、と考えられていたからである。
しかし士官学校から届く結果では、カーネマンの予測がことごとく外れており、この予測と事実の違いが本格的に心理学の道に進むきっかけとなった。
誰もが、課題を勇敢に解く姿を見せつけられれば、直感的に「こいつは立派なリーダーになるに違いない」と思うだろうが、それは大きな錯覚なのである。これは一度でも面接をしたことがある人なら、良くわかるのではないだろうか?
人の意思決定には直感的な”速い思考(システム1)”と熟慮的な”遅い思考(システム2)”が関わっている。自分が生き残りやすくするために、脳の役割は努力を最小にし効果を最大にすることだから(脳は元来怠け者)、大体は”速い思考”で何とかなっている。
私がこの脳の動きを1年で最も実感するのが花粉症の時期だ。
花粉の飛散が多くなってきた時期の土曜日、予約人数はMaxの日で200人くらいだ。この中の70~80%の人が「くしゃみ、鼻水、目のかゆみ」を訴える。
12時を超えたあたりからはこの訴えで花粉症以外の診断を考えられなくなる。完全に自動システムの”速い思考”に乗っかているな、と多少の恥ずかしさを含んで実感している。
さて、例えばそんな状況で「くしゃみ、鼻水の他には少しのどが痛くて、だるいんですよね」と訴える人が診察の椅子に座ったとしよう。私には2つの選択があると思う。
一つは「くしゃみしていたら、のども痛くなるし、花粉症で睡眠の質が落ちるからだるいよね」と花粉症という診断が最も認知的に簡単なので、それに飛びついて説明する。
もう一つは花粉以外の可能性を考え、「のどの痛みとだるさは、熱のないコロナの特徴なのでコロナの検査をしましょう」と、ピュアな花粉症と比べ微妙な違いを検知し、”遅い思考”を特別に作動させ吟味に入る。
この患者さんがコロナであった場合、一つ目の選択では誤診になる。
このように、”速い思考”は便利ではあるが、簡単なことに飛びつきやすく、情動に左右されやすいので、それに頼りすぎているとエラーを起こすのだ。
もし、この本を読んでいなかったら、私は誤診をしても「花粉症の時期は忙しいからしょうがない」で済ませてしまっていたと思う。生まれつき組み込まれた認知の設計のせいで、人という生き物はエラーを起こすようにできている。このからくりに気が付くことで、次は自分の”遅い思考”を要所要所で作動させる訓練をしようと思える。ミスは個人の資質のせいとするより、よっぽど建設的にミスを防ぐ方法だと思えないだろうか。科学的に自分の診療の質を上げる方法を教えてくれたこの本は私の認知の世界に色を与えてくれたのであった。
ダニエル・カーネマンは2002年に心理学と経済学を握手させた功績でノーベル経済学賞を受賞した。「ファスト&スロー」にはこの功績が詰め込まれている。そして今年3月27日に90歳で亡くなった。感謝を伝えたい。
ダニエル・カーネマンは2002年に心理学と経済学を握手させた功績でノーベル経済学賞を受賞した。「ファスト&スロー」にはこの功績が詰め込まれている。そして今年3月27日に90歳で亡くなった。感謝を伝えたい。