院長ブログ
2024.11.03
タペストリー
キャロルキングの「Tapestry(タペストリー)」は私が最も好きな洋楽アルバムの1つである。
彼女の楽曲は”人生とは出会いや別れ、そして感情が織りなされてできたものであり、それはまるで縦糸と横糸を織ってできるタペストリーの様だ”と表現している。
前回のブログで書いたように、健全な物忘れとはこの糸が緩くなりタペストリーが1枚の布ではなく断片になってしまうような状態で、病的な物忘れとはタペストリーそのものが記憶から無くなった状態なのだろう。
ららぽーとのような大型ショッピングセンターの立体駐車場でどこに車を停めたかわからなくなったことは無いだろうか?買い物するのにワクワクして、駐車した場所(2-Bとか)を覚えてなく、上から下まで同じような作りの立体駐車場で途方に暮れたことが私はある。これは注意を払うことを忘れていたというだけだ。病的な物忘れとは「どうやってきたっけ?」と車で来たことを思い出せないようなことだ。
年をとるともちろん注意力は低下する。ちなみに60代の十分注意は20代の不注意と同じくらいの注意力だそうだ。加齢には抗えない、ということは注意力の低下にも抗えない。なので最近は、私は自分より若いスタッフの記憶の方を信じて働いている。
何十年も前の鼻の手術は、今のように内視鏡ではなく局所麻酔で顔の骨をノミとトンカチで開けていた。その頃の鼻の手術の経験者は手術での忘れられない恐怖と痛みを辛い記憶として私に話して聞かせてくれることが多い。
先日の患者さんも手術の時の恐怖を話してくれたが、そこに明るい口調を感じたので尋ねたところ、「手術の後、鼻の調子がよくなってとても健康になったんです。だから手術は怖かったけど、やってよかったな。って思っているんです」もし、術後に期待していたように健康になっていなかったなら、彼の記憶はどう変わったのだろう。
”過去どうだったか”と”今どんなか”を切り離すことは難しい。だから記憶は書き換えられる。人は事実をビデオカメラのように覚えているわけではないのである。
私が覚えている一番古い記憶は、”2歳ごろ母親と近くに路面電車が走る野原でつくしを見つけた”というものだ。母親、路面電車、揺れる緑、つくし、を映像としてぼんやり覚えている。
この記憶が事実だとするとつくしの時期は3~4月なので、早生まれの私は2歳とちょっとになる。富山の4月はそんなに緑ではないし、2歳ちょっとの子が事実を記憶できるだろうか?保育園の遠足は5月だからその時の記憶とごっちゃになっていないだろうか?
タペストリーは縦糸を太い横糸が包み込み、横糸が絵柄を表現する。本当のことより、自分がどうとらえているかの方が人生には有効なのだ。私の記憶の正否を母親に確認してみようかと思ったが、それはやめた。正しい記憶が自分を幸せにしてくれるとは限らないではないか。