院長ブログ

2024.11.13

忘れること

”マット・デイモン”が出てこなかったり(前々回)、ららぽーとの立体駐車場で迷子(前回)になっていた時、私の心の底に在った感情は”恐怖”だった。自己を成していた自分だけの記憶で編んだタペストリーを失ってしまう恐怖である。いつか私は家族、友人の顔や自分の帰る家も忘れてしまうのではないか!?と。
だが人の記憶はそもそも脆弱で、忘れやすいし書き換えられやすい。まるで人の初期設定は忘れることを含めているようだ。そこで、記憶にまつわるブログの最終回は、”健全な忘れること”のメリットについて考えてみたい。
例えば完璧な記憶を持つ人と映画を見たと想像してみよう。映画の後のカフェで、完璧な記憶の人はきっと初めから最後まで、ありとあらゆるシーンをもれなく細部にわたり話しだす。途中、私がどうでもいシーンをすっ飛ばすことをお願いすると、気分を害するかもしれない。一方私は、お気に入りのシーンを語る。
映画について話すとは再生することではなく、映画について考えることである。映画について考えると、ピックアップされるシーンもあれば、忘れられるシーンもある。考えるには記憶を取捨選択しなければならず、記憶に濃淡が付いていないとできないことなので、濃いも淡いも一律に記憶できてしまう人(「レインマン」のダスティンホフマンがやった役が浮かぶ)はおそらく考えることはできないのではないか。淡い記憶は忘れられてしまうが、それができるからこそ考えられる。そして物事に優先順位が付けられ臨機応変に生きられるのだ。
それに何と言ってもカフェでは、お互いのお気に入りはもちろん、記憶があいまいになっているところを指摘しあえる方が楽しい。
次に、前々回からのブログを読んだスタッフは自分の体験から、友人が旦那さんの急死を境に”モラハラ男”から”理想の旦那さん”と評価が変わったことを話してくれた。
忘れるメリットを考えていた私には、スタッフの友人にとって旦那さんの記憶を書き換えることは必要なことのように思えた。モラハラ男に自分の40年を捧げてしまった恨みつらみを抱えて生きるより、理想の旦那と過ごした40年と記憶していた方が幸せな余生となるだろうから。
さらに、自分が”不注意で何かしらやらかす”という自覚があれば、おのずと謙虚さが生まれる。年をとってからの謙虚さは美徳だ。人に優しくなれ、自分の記憶の質を客観視させてくれる。実際この客観視があるか無いかで病的な忘れ=認知症のダメージが変わるらしい。そして知的謙虚さは何より学習の動機になる。脳は学ぶことに貪欲な臓器なので、不要な物を忘れることで、学ぶ余地を作ってくれている。
忘れることで生まれた、今の自分を肯定でき、他人に優しく、足りないところを学ぼうと思えたなら、年をとっても目まぐるしく変わる環境にも順応し幸せに暮らせる。
人に”忘れること”が組み込まれているということは、”幸せに生きるため”に設計されているということだ。もちろん実際に幸せに生きていけるかどうかは別の話になるが。

最後に、開業直後、ある老人が「俺は社長だから、順番を早くしろ」とスタッフにすごみ、その対応のために診療を中断しなければならないことがあった。以来14年間、その名字が書いてある会社の車を見かけるたびに苦々しい記憶がこみ上げ、舌打ちしていた。その老人が、最近受診した。何も覚えていないような様子の本人を前に、あの時の恨みを晴らそうかどうしようかと逡巡したが、それは脇に追いやり、結局私にとってのいつもの診療で終えた。”忘れたふり”を身につけるのも必要なことだ。