院長ブログ
2025.02.19
音の旅
水族館では円系の水槽の中で、大きいミズタコがその足をうねらせていた。そうすることで、今の自分の置かれている状況を必死に把握しているように思えた。
感覚は計測するためではなく、生き物としての自分状況、身体の内であれ外であれ、を理解するためにあり、総本山の脳は、客観的世界を自分にとって意味あるものに作り替える場所だ。(以前のブログを参照)私は彼(彼女?)が元居た海とは違うことを知り、絶望するようでいたたまれなくなり、そこを離れた。
人の感覚はタコのように足をうねらせなくても、感覚器(目、耳、鼻、口、皮膚)が知覚してくれる(五感)。それを認識する場所、つまり脳の皮質に至る経路は感覚によって違いがある。
耳の場合は、内耳→聴神経→蝸牛神経核→上オリーブ核→下丘→視床→聴覚皮質(聴こえる)
眼の場合は、網膜→視神経→視床→視覚皮質(見える)、
鼻の場合は、嗅球→嗅皮質(匂う)
小難しい解剖の名称が出て、読んでいて嫌になったと思うが、私が言いたいのは、”聴こえた”と分かるまで聴覚は感覚の途中駅が多いということだ。
途中駅が極端に少ない嗅覚は、他の部署(例えば言語野、運動野)と結びつく視床という場所を通らないので、臭いを言葉にして伝えることは非常に難しい。私には「匂う」、「ちょっと匂う」、「匂わない」くらいの語彙力しかない。だから聴覚も視覚も客観的に聴力、視力として測定できるのに、嗅力は難しい。その代わり、記憶をつかさどる場所に直接つながっている。匂いを感じるとまざまざと過去の記憶がよみがえるのは、この配線のせいだ(過去のブログ)。音楽を聴いても記憶はよみがえるが、匂いほど劇的ではないだろう。
では聴覚はなぜ途中駅が多いのだろう?
音はピッチ、音色、時間、強さなどで構成されている。脳に伝わるのは電気信号だから、振動を電気に変えなければならない(内耳)。ピッチ毎に反応する細胞がそれを分析すると同時に、左右に入った音の時間と大きさの差で音がどこから届いたか計算し、必要と思えば注意したい音に集中することができる。もし、休日のららぽーとのフードコートで、わが子と会話できたなら、是非聴覚の途中駅の多さを思い出して欲しい。
音の脳への旅は一本道ではない。途中駅で様々かつ複雑に聴覚以外の領域とやり取りした情報を皮質に伝えている。分析しなければならない情報が多いので、途中駅も多くなるのだ。当然このルートが障害されていると、”聴こえない”になる。現代では”難聴”だけでなく、”聴覚情報処理障害”とか”オーディトリー・ニューロパチー”という具合に診断が細分化されている。
ありがたいことに音が無事に旅をしてくれたなら、脳という宇宙で、それにより思考し、感情が沸き起こり、時に体を動かしたくなる。
分析しなければならない情報が多い聴覚は求められていることも多い。聴覚は何をするためにあるのだろう?それをヘラン・ケラー(聴覚視覚音声障害者)に答えてもらおう。
「目が見えないと物と結びつくことができなくなる。耳が聞こえないと人と結びつくことができなくなる」
「目が見えないと物と結びつくことができなくなる。耳が聞こえないと人と結びつくことができなくなる」