院長ブログ
2025.04.12
痛みの舞台裏
ぎっくり腰を欧米では魔女の一撃という。言語は違えど、状況は伝わってくる。
最初は一撃というほどでもなかった。それが証拠にきっかけとなった掃除も、こまごまとした雑用も済ませられ、おまけに自転車を漕いで家に帰った。次の日からの仕事を考えると、安静にしたほうが良いだろうと横になっていると、痛みがだんだん強くなってきた。
この時、私の身体では、以下のようなやり取りがされていただろう。
(意識する)私「あ、やちゃった」
脳の管理官「左の腰に異常が発生したわ、現場はどうなっている?」
情動担当「やばい、動けなくなるんじゃないの!不安だわ!」
運動担当「左の臀部の筋肉を傷めました」
管理官「OK、過去の損傷歴を調べてみるわ。う~ん、3年前も近い場所を痛めているね」
運動担当「おしりや股関節ら周辺はしばらく休みたいと言ってます。現場からは以上です」
私「休んでいるのにだんだん痛くなってきたな、なんで??」
そもそも痛みは損傷の程度を表すスケールなのだろうか?
やけどはその深さによってⅠ度、Ⅱ度、Ⅲ度に分類されるが、浅いはずのⅠ度が痛みは強い(と学生時代習った)。同じことは急性中耳炎の世界でも見られる。耳だれがドクドク出ているような重症度が深い子より、鼓膜表面に水疱ができているだけ子の方が痛みを訴えてくる。直感に反するだろうが、痛みは損傷の程度を反映してはいないようだ。
さて、安静にしていても腰が痛いので、私は「痛みがなければどんなに幸せだろう?」と妄想を抱いていた。それを砕いてしまうが、痛みのない先天性無痛症の人は、どこか怪我をしていないかとビクビクしながら日々を過ごし、20歳を超えて生きることは稀であるという。
また、脳の情動部門が損傷されると、痛みを感じても気にしなくなる。うらやましい気もしないでもないが、情動が無くなるということは人間らしさが削がれるということで、この時期の桜を見ても感動できなくなる。それは嫌だ。
次の日は仕事なので、痛くても腰を曲げてみようと意図してみたが思うようには曲げられなかった。まるで意識ある私の命令を、無意識が頑として拒んでいて、私の腰は無意識の意見を採用しているような感じがした。きっと私の身体での続きは次の様だったのだろう。
脳の管理官「セキュリティー!」
防衛担当「筋肉や関節を守りたいと思います。痛みを生みましょう」
管理官「そうね、美奈子はこの期に及んで自転車を漕いでいたわ。筋肉や関節だけでなく、大事な脊髄も守りたいわ。痛み中枢、オン!」
私「イタタタタ」
痛みは損傷した組織からでる反応ではく、自分の身体に生まれた損傷とそれに伴う危険から自身を守る目的のために脳が作り出したものなのだ。そして意識のコントロールが及ばない、無意識によるトップダウンの判断なのだ。だから痛みが無くなる過程とは、傷が治ることだけでなく、無意識の管理官が安全だと認識し、痛み命令を解除していくことと同じなのだと思う。
このことに気がついた今回のぎっくり腰は、数年患ったこともある若いときのぎっくり腰より早く鎮痛した。またこうして健康に関して私に別の視点を与えてくれた。感謝かも。