院長ブログ
2025.04.23
なぜ”めまい"はあるのか
ものの見方が立場によって変わるように、病気も見る角度によって変わる。
腰の痛みを”筋肉が損傷した結果生まれたもので、原因を究明し、薬を飲んで治すもの”という角度で見るか、”損傷した身体を守るために、脳が作り出したもの”と別の角度から見るかで、痛みは変わった。
前者は直感に沿っているので受け入れやすいが、腰痛には必ずしも当てはまらない。そしてある種のめまいもそんな気がしている。
めまいがない=バランスがとれている状態とは、自分が周囲の空間(世界)と折り合いをつけている状態といえよう。一般に感覚は感覚器によって集められ、いくつかの中継地を経て大脳皮質で整理される。平衡感覚は動きを感知する内耳以外にも、視野を安定するための視覚(眼球運動)、触覚や深部知覚などの体性感覚によって集められ、最終的には大脳皮質で整理されバランスをとっている。このシステムのどこかに異常があれば、めまいを生じうる。そして検査はどこに問題があるのかを探るためにある。めまいで病院に行った人なら経験のある大きな眼鏡をかけるのは眼球運動を見ているのであり、めまいで不安のなか誰でもが思う「頭は大丈夫?」で行く脳外科でのMRIは画像に映る異常を見ているのである。
治される方も治す方も型どおりな治療の枠に収まる理論を好む。「原因は○○で結果✕✕です」。検査で測定出来て、認識できて。なるほど、頭位性めまいはこれにあたる。「原因は耳石で、半規管に入り込むから頭を動かすと耳石が動くので、結果めまいが出ます」しかし検査で異常が見当たらないめまいもある。この異常が見つからないめまいは脳の錯覚なのではないだろうか?と思うことがしばしばある。
自分の身体と空間を錯覚している状態もまためまいの一種である。例えば、三島駅で友人を車を停めて待っている時に、隣の車がバックで動くとまるで自分が前に出たかの感覚になり、急いでブレーキを踏みそうになった経験はないだろうか。このような錯覚は見ている感覚(視覚情報)と体性感覚の不一致で起こり、アトラクション(USJのハリーポッター・アンド・ザ・フォービドゥン・ジャーニーなど)で利用されている錯覚でもある。検査で異常がでないめまいの中には、この錯覚が続いているような病態が多いのではないか、と考えている。
感覚は世界を知るためにある。刻一刻と上がってくる感覚の情報をもとに脳は身体と相互にやり取りし、自分標準、例えば「坂道はきつい」あるいは「坂道はゆるい」という主観をつくる(以前のブログ)。主観の所属先はもちろん自己である。自己が揺らぐようなときに、上がってくる感覚をうまく整理できなくなり、めまいという錯感覚を起こさせるのではないだろうか?何か月もふらふらするめまいを自覚している人の脳では集まった感覚を整理する大脳皮質部分の活動が健康な人に比べて低下しているという。
おおよそ、自分の身体に起こっていることで自分の生きる環境と関係がないことがあるだろうか?なのに、治される方はその社会的環境が絡まないほうを好む。おまけに自助努力なく”ちちんぷいぷい”薬で治る方がいっそう好まれる。
めまいも腰痛もどこかの損傷の結果と考えるより、健康状態の一つの見解と捉えれば、答は見えてくる。生命は維持されるよう方向づけられていることを考えると、それは必要なことなのだろう。