院長ブログ

2024.03.24

僕の後ろに道はできる(Ⅱ)

坂は見る人の状態によって斜度が異なっている。ボーゲンがやっとできる程度で、急斜面を怖がらず滑る人は怪我をする確率が高いだろう。
同じように、脅威という感情を植え付けられると、見知らぬ他人との距離が短く感じられる。自分の安全のためには相手ともっと距離を取りたいと思うわけだ。
知覚の役割はありのままの世界を描くことにあるのではなく、次にとる行動を決断しやすいよう世界を提供することにある。知覚は自分の生存確率を上げるために進化が開発したセンサーだ。
そうやってできた”私だけの世界”を”環世界”、ドイツ語で”ウンヴェルト”という。
 自分と他人が同じ経験をしても全く違う捉え方に驚いたことはないだろうか?
中高の同級生にピアノがとても上手な子がいた。「ピアノは誰にも負けたくない」と合唱コンクールの伴奏を誰よりも熱い心で演奏したのが彼女だ。ピアノへの熱い心と反比例するかのように数学は苦手だった。高校は進学校だったから、ほとんどの生徒が100点満点で85点以上は取る入学直後のテストで赤点だったので、”なぜこの子が入学してしまったのか?どう教育していくか?”と緊急職員会議が開かれたという逸話を持つほどに苦手だった。その彼女が共通一次の前に「数学を教えて」と私に言う、「なんで微分の記号はヘ音記号じゃダメなの?」と。あまりの数学への解釈の違いに腰を抜かすほど驚き、どう答えたか全く覚えていない。。。
数学という世界を私と彼女は全く違う捉え方をしていた。数学を巡る私のウンヴェルトと彼女のそれは全く重ならなかった。ただ彼女は音大を卒業し、ピアノの先生になった。私は理系を生かし今の職業に就いた。そして2年前、演奏会が開かれれば採点する立場になった彼女が、三島での演奏会に来た時、私たちは旧知を温めた。学生時代を共に懐かしむウンヴェルトは重なっていたと言えるだろう。
コミュニケーションとはお互いのウンヴェルトを重ねようとすることで、相手が望まないのに自分のウンヴェルトを強要することがハラスメントと言えるだろう。”頭ポンポン”は老人男性には親愛の情かもしれないが、不必要に体に触られることは女性にはハラスメントである。
このように各々のウンヴェルトの中心は自分なので当然それは”歪み”を含んでいる。その中だけで生きていると、自分に合うものしか受け付けなくなるだろう。第3者的に自分を知ること(汝自身を知る)は歪みを正し、そして世界をあるがままに見つめられるようになることだ。
自分のウンヴェルトは歪んでいるまではわかるけど、どうしていいかわからない人には前回のブログがヒントになると思う。ネコは足をつけて歩いていた方が世界を捉えられていた。つまり”身体を動かす”ということだ。幼児は親が手助けしようとすると「自分でやる!」と頑として拒む。世界に生きている充足感を生んでくれるのは自分の行為なのだ。身体は頭の中で考えたことを出力する場ではない。身体を生かすために頭がある。だから頭の中を本当に変える一番の薬は身体を変えることだと私は思っている。
道は僕の後ろに出来て、”僕のふみしだいて来た足あと”なのだから。